あのときのことは今でも鮮明に覚えている。
深夜零時をまわった頃、オレンジ色の豆電球に照らされた室内で、わたしは生後数週間の娘を抱いて涙を流していた。
当時、娘の授乳に苦労していた。
母乳の出は順調だったのに、娘がなかなかおっぱいに吸いつけなかったことで、授乳のたびに何時間も費やしておっぱいをくわえさせる練習をしていた。
出産してから毎日ずっとそんな感じでろくに寝る時間も確保できなかったから、疲労は溜まり続ける一方で、うまく事を運べない自分への苛立ちや不安もつのるばかりだった。
その日もなかなか授乳がうまくいかずに時間だけが過ぎていき、わたしも娘も体力を消耗し続けた。
娘の泣き声が家中に響いていた。
わたしは途方に暮れ、娘に「こんなママでごめんね」と言った。「これ以上なにもしてあげられないの」と。
不甲斐ない、情けない、もう嫌だ、逃げ出したい…
そのとき、仕事を終えた夫が帰ってきた。
薄暗い部屋で泣いているわたしと娘を見て、夫はびっくりしたようだった。
わたしは無言で夫に娘を引き渡し、別部屋に引きこもった。
娘も泣きつかれていたようで、数分で泣き声は止み、眠ったようだった。
それから夫はわたしのいる部屋へと入ってきた。
夫はわたしに「何かあった?どうしたの?」と聞いてきたけれど、わたしは泣いたままなにも答えられずにいた。
まず自分の身に何が起こっているのかわたし自身がわからなかったし、この涙を止める方法だってわからなかったのだ。
そのときのわたしの心にあったのは、不安、孤独、自己嫌悪、無力感、焦り、悲観、睡眠欲、苛立ち…それらがぐちゃぐちゃに混ざり合ったものだ。
そしてその感情を自分で認識するよりも早く、とにかくもう涙が出てきてしまうのだ。
いわゆるマタニティブルーというやつだけれど、その渦中にいるわたしは自分の状況もうまく説明できないし、湧き出る感情や涙を自制することすらできないのだ。
それはまるで高速回転するコーヒーカップに意図せず乗せられたような感覚で、流れゆく景色(目の前の出来事や自分の心の中)を正常に認識できないまま、為す術もなくただくるくると回るしかないような状況であった。
そんなわたしを見た夫は隣に座り、ゆっくりと背中をさすった。
その後わたしが泣きつかれて眠りにつくまで、彼はなにも言わなかった。
あとから聞いた話だと、あのとき夫自身も「どうすればいいかわからなかった」という。
だから何も言うことができなかったと。
だけれどあのときのわたしは、ぐちゃぐちゃになった心の中で、自分とともにコーヒーカップに乗っている人の存在を感じた。
夫は仕事が忙しく、わたしはほぼひとりで娘の世話をするしかなった。
それは育児をする上で、理想的な状況とは程遠いものだったけれど、それでもあの瞬間、自分と同じ方向を向いて立っている人の存在を確かに感じたのだ。
もしもあのとき、夫から説明を求められたり、頑張れよなんて発破をかけられたり、なだめるよりも早く解決策を提示されていたりしたら、わたしはますますヒートアップして孤独感を強めていたかもしれない。
「この人はカップの外にいるのだ」と。
その日以降も、わたしのマタニティブルーはしばらく続いた。
感情が高ぶるたびに涙が出たり、夫を攻撃するようなことも言った。
「あなたは仕事をするだけでいいのだから気楽だよね」と。
そんなときでも、夫はなにも言わずに話を聞いてくれることが多かった。
そうしているうちに、わたしは少しずつ落ちつきを取り戻し、目の前の状況や自分の心の中を、本当に少しずつだけれど、認識して整理できるようになってきた。
その段階で初めて、「これがつらい」「こうしたい」「こうしてほしい」ということも、まわりに伝えることができるようになった。
それからも、一発逆転ホームランのように、いきなり事態が好転することは決してなかったけれども、わたしは少しずつ母親になり、夫は少しずつ父親になっていった。
わたしたちは少しずつ家族になっていったのだ。
わたしの経験した産後は、「万全」でもなければ「最善」でもない。
夫婦ともに「なにがなんやら」の状態で全くの手探りであった。
それでもわたしは、あの日、ただとなりに居てくれた人の存在を、背中に感じた温かさを、きっとずっと、忘れることはないと思う。
>>>次回のエピソード:“深夜の部活動”からの卒業!わたしが産後にバランスボールを買った理由
著者:はなこ
年齢:28歳
子どもの年齢:3歳
2012年生まれの娘を持つ1児の母。娘との日常を描いた はなこのブログ。や はなこの約4コマブログ を運営し、日々くだらないことばかり書いている。重度の親バカ。 また、自身の育児体験を活かし ママと赤ちゃんの産後MEMO にて産後のママのための情報も発信中。
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