私が結婚したのは33歳の時で、決して早いほうではありません。
そしてその時はまだ子供を持つ覚悟が定まらず、いつか子供が欲しいと思ってはいたものの、赤ちゃんいつでもウェルカム!と思えなくて、しっかり避妊をしていました。
夫のほうも、子どもが大好きだから早く欲しいというタイプではなく、夫婦のお財布は別にしてお金は彼の好きなように使っていました。
子供がいなければいないで楽しくやっていけると考えていたようです。
この先、子供を授かるまで様々な試練が待ち受けているとは知らずに。。。
夫の転職で子作りをためらう
結婚後、夫はほぼ1年おきに2回転職をしました。
私は結婚して1年経った頃から、そろそろ子供を作りたいな、という気持ちが生まれていたのですが、40代を目前にしても仕事が不安定な夫を見ていたら、まだ無理かもしれない…と子作りをためらっていました。
若い頃から何度も転職してきた夫ですが、彼自身、これから仕事をうまく続けていけるのか不安が大きかったようで、この頃に、私が子供が早く欲しい言ってもきっと困ったでしょうし、私もその頃は正社員として働いていたのですが、私が全部何とかする!と言えるほどの甲斐性はありませんでした。
この時期から妊娠するまでの間は、幸せな2人の新婚生活だったはずなのに、今は、何となく暗い色調で思い出されます。
やっと子作り解禁するも、全く妊娠しない私
夫が結婚後2回目の転職に成功して、やっと子作り解禁となりました。
しかし思うように妊娠せず、1年が経ってしまいました。
基礎体温を測って排卵検査薬も試しましたがダメでした、既に私は30代も後半に突入しています。
この頃、自分は不妊症なのかもと思い、非常に苦しい毎日を過ごしました。
同時期に結婚した職場の女性は妊娠して産休に入ったり、私の後に結婚した妹も子供が産まれたりしているのに、どうして私だけ妊娠しないのだろう?とまるで不幸のどん底にいるような気持ちでした。
普通に夫婦生活があっても1年妊娠しなければ不妊という定義や、30代後半で妊娠希望ならすぐにでも婦人科を受診するべき、などの情報をたびたびネットで目にして、やっぱり私たち何か問題があるのかも...と思い悩み、不妊治療専門の病院を受診することに決めました。
こういったところにはずっと抵抗があって行くのは嫌だなと思いましたが、この嫌な気持ちを乗り越えなくては妊娠も出産もないのだから、と自分を鼓舞しました。
そして、タイミング法6回、人工授精は3回挑戦しました。
けれど、毎回ちゃんと排卵しているのに、妊娠する気配は全くありませんでした。
そこで、いろいろと検査もした結果、夫には何の問題も無く、私のほうに黄体機能不全、潜在性高プロラクチン血症などの問題があることが分かりました。
この結果を聞いて、妊娠しないのは、私という人間が次の世代に遺伝子を残す必要の無い人間なんだというように思えてしまって、とても辛かったです。
生理が来るたびに落ち込んで泣き、そのたびに全てが終わってしまったかのような絶望感を感じました。
通りすがりの子連れの女性すら憎く思えて、その中でも「お腹に赤ちゃんがいます」と書かれたマタニティーマークをカバンにつけている女性を見かけるのが精神的に一番こたえました。
人工授精に3回挑戦してダメだったら体外受精に進むと決めていたのですが、本当は、体外受精の治療はとても怖くて抵抗がありました。
この治療に進んだら「もう後が無い」と思い込んでいたので、人工授精の期間は不妊治療をしている中で一番苦しい時期でした。
体外受精まで進んだ結果
結局、転院して体外受精に挑戦することになりました。
実はこの間に引っ越しをして、それまで通っていた病院が遠くなり、また、どうせ体外受精にステップアップするのだから、新しい病院で心機一転しようと思ったからです。
採卵や、卵子が受精するかどうか、受精卵が育つかどうか、胚移植してからどうなるか…体外受精を進めるには沢山のハードルがあり、私たちはどこまで進めるのか毎日ハラハラして気がきではありませんでした。
体に負担の少ない方法からスタートし、初めての体外受精は低刺激法でした。
排卵誘発には生理3日目から10日間セロフェンという薬を服用をし、途中の卵胞のエコー検査でできた卵は2つでした。
低刺激法とはいえ、ずいぶん数が少なく感じとても不安でした。
排卵誘発には注射も必要で、採卵の直前には自宅で自己注射もしました。
一番不安だったのが痛いとよく聞く採卵でしたが、局所麻酔がよく効いたのか、全く痛みの無いまま終わり、採れた卵は3つでした。
卵が1つでも増えたことがとても嬉しかったです。
この日は会社を休んでいた夫も家で精液を取ってから病院に来てくれました。
胚移植予定日に受診すると、何と、その3つの卵の全てが受精し成長を続けてくれていました。
とても嬉しかったのですが、残念ながら3つとも形が悪くグレードが低かったのです。
そのため、胚移植は延期し、卵が胚盤胞まで育ってから移植をする、という計画になりました。
そして、3日後の朝、病院に電話をすると、嬉しいことに卵が胚盤胞まで育っていました。
そのままその日に胚盤胞移植をすることになったのですが、このことは今でも奇跡のように思えます。
この時、胚盤胞まで育った卵は1つだけだったのですが、その唯一の胚盤胞はグレードの低かった時の面影はなく、不思議なほど順調に育ってくれていました。
その後、それから1週間後の着床判定で陽性が出て、また1週間後に胎のうが確認でき、そのまた1週間後に卵黄嚢と胎芽を確認し、その1週間後に心拍確認ができて、ついに不妊治療専門病院を卒業、と、トントン拍子に進んでいきました。
何度か「もう今回はダメかも」と思ったのに、たった1つだけ残った卵の生命力は力強く、まさに命の輝きのようなものを感じてしまいました。
こうして、私たちは体外受精に成功し、無事に妊娠、出産し、現在子育てすることができています。
今思い返すと、胚移植の後、この卵はダメになるはずが無いという思いが湧き、ほんのりと幸せを感じたことがありました。
それまでダメダメづくしだった妊活ですが、体外受精の治療の間は、初めてながらヨロヨロと、それでも順調に進んで、やっと「自分の全てがダメなわけじゃない」と思えて光の差してきた嬉しい時でした。
妊娠まで長い道のりでしたが、あの苦しい日々は、私たち夫婦が新しい家族を迎えるための試練だったのかもしれないと今ではそう思っています。
ゼクシィBaby WEB MAGAZINEの記事
著者:runa
年齢:39歳
子どもの年齢:2歳
1年間の不妊治療を経て、30代後半で妊娠・出産をしました。仕事もしながら、まだ小さな娘の育児にまだまだ悪戦苦闘している毎日です。
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