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[吉田戦車さんインタビュー]あれから5年。東日本大震災を振り返り、故郷岩手に思うこと

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2011年3月11日、岩手県奥州市出身で東京在住の漫画家・吉田戦車さんは、1歳になった娘さんと井の頭公園に遊びに行きました。強い地震の揺れに見舞われたのは、それから自宅に戻った直後。今でも休憩した公園のベンチの近くに行くと「その1時間後のことを思って胸がドキドキ」という吉田戦車さんに、当時のこと、故郷のこと、そして被災地への思いを語っていただきました。

 

被災地の様子を震えながらテレビで見ていました 

あの日は娘と井の頭公園に遊びに行って帰ってきて、自宅の2階にいた伊藤(妻で漫画家の伊藤理佐さん)に娘をバトンタッチしたあと、強い揺れを感じました。

驚いたのと同時に、とっさに玄関が開くかどうか確認して、いつでも外に逃げられるようにしたあと、2階に上がった。伊藤は子供を抱いて机の下にもぐり、「コワイよ、コワイよ」とずっと言っていました。その後下に降りて一緒にテレビを見て呆然としていたことを覚えています。

数日後、今度は原発の問題が深刻化。まだ子どもが小さいので、東京の浄水場でヨウ素が検出されたときにはパニックになりましたね。

すぐにスーパーから水が消えて、当時の日記を読んでも、「今日は水が1本だけ買えた」とか書いてある。水の確保に駆けずり回るなか、近所の人が、「水足りてる?」って声かけてくれたり、スーパーのレジの人が、ひとり1本のボトルの水を夫婦で2本買おうとしたら「赤ちゃんの分もカウントしていいんですよ!」と気遣ってくれたり。そういうやりとりに心温まることもありました。

でもテレビを通して被災地の現実を見るのは辛かった。僕の両親も親戚も友人も、運良く無事でいてくれましたが、高齢者の方が水浸しでガタガタ震えながら、僕や両親と同じ方言でテレビ取材に答えているのを見たときは、一緒に震えながら泣いていました

 

原発事故の後は、放射能を恐れて関東から離れた人が結構いましたよね。うちもどうするか夫婦でさんざん話はしましたが、結局は「仕事あるし」と東京に留まって今に至ります。ただ、子どものこともあるので、放射性物質のことはネットでずっと情報収集を続けていました。

拠り所にしていたのは、今は役目を終えて閉鎖されている「専門家が答える暮らしの放射線Q&A」とか、twitterで発信していて書籍化もされた「いちから聞きたい放射能のほんとう」(菊池誠、小峰公子/著)や「知ろうとすること。」(早野龍五、糸井重里/著)など。

こういった、科学的かつ冷静な情報をある程度信頼して、東京を離れる必要はないと判断したのです。ただ、遠くへ行った人たちの気持ちも分かるので、否定することも笑うこともできませんでしたね。 

 

そういえば3月11日、僕たちが呆然とテレビを見ている後ろで、娘がはじめて歩いたって伊藤が言うんです。僕は見ていなかったんですが、トトトトって。さらに次の日は、夫婦2人分の牛丼を買ってきて、娘にご飯だけ食べさせようと思っていたら、目を離したすきに手づかみで牛肉を食ってたんですよね。いきなり歩いて、肉食って、急に生きる力が増したな、地震で何か感じ取って、「早く大きくなんなきゃ!」って思っているんじゃないかと思いましたね。

 

漫画を通じて出会った東北の子どもやお母さん・お父さんたち 

大震災のあとの東北に最初に行ったのは、4月の終わりから5月はじめの頃でした。伯父が地震とは関係なく老衰で亡くなって、葬儀のあと気仙沼に支援物資を届けたんです。たまたまドライヤーなど道具を必要としている美容師さんが避難所にいる、という情報を知ったので、買って持っていって、「○○さんいますか?」と避難所の体育館を探し回って渡しました。

それからしばらくは毎月のように、ボランティアやチャリティイベントで被災地を訪れました。しりあがり寿さんとか他の漫画家さんたちと、盛岡のSAVE IWATEというNPOの活動に混ぜてもらって、被災地の子どもたちと「漫画体験授業」をやったり、瓦礫を撤去したり。歌手は歌を歌ってあげられるけど、漫画家は何もできないから、一緒に何か描くだけでも暇つぶしになればいいかなと思って、「『少年ジャンプ』の作家じゃなくてゴメンねー」とか言いながら。なかにはずっと下を向いている子もいましたし、みんなそれぞれいろいろな事情を抱えていたと思いますが、参加者の子どもたちに多少は楽しんでもらえたかなと思います。

震災の翌々年には、仮設住宅に住んでいる子どもたちが、ストレスが溜まってイライラしがちな傾向があるという話を現地の方から聞き、フリースペースで絵の具まみれになるイベントもやりました。絵の具とか墨汁でベチャベチャになって遊んでる子どもたち、すごく楽しそうでした。

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すごくありがたくて印象に残っているのは、被災地で似顔絵サイン会をやったときに、大地震の直前や直後に出産したお母さんやお父さんが赤ちゃんと一緒に来てくれたことです。大変な思いをしたなか、わざわざ足を運んで来てくれたことに、こっちのほうが恐縮してしまいました。

 

夫婦で言い合いも。それでもとことん話し合う 

大震災をきっかけに、夫婦の会話はものすごく増えました。最初の年は、放射性物質のことで、言い合いも多かった。伊藤は不安でしょうがなくて、慎重になるのに越したことはないというスタンス。僕は、それはそれで気持ちはわかるから付き合いつつも、故郷が被災地ということもあって、できるだけ冷静に、思いっきり文系の人間ではあるんですが、可能な限り科学的に判断したいと思っていました。

小さい子どもへの影響を考えると、心配になるのは仕方ないので、ときには僕のほうが折れたり、伊藤のほうがすり合わせてきたり。今思えば、いいディスカッションができたんじゃないかと思います。震災前から定期的に取り寄せていた福島のお米も、一時中断したけど、今は再開して家族で食べてます。

原発については、心情的には反原発デモに行く人たちに共感していました。でも、放射能を恐れるあまり被災地を否定するようなことは絶対にしたくなかった。何かを忌み嫌い続けることは、心のどこかが削られる気がして、できるだけ冷静で前向きな情報をチェックしようとしていました。

振り返ってみると、あのときは不安と絶望のなかで、日本は原子力をあきらめて再生可能エネルギーの国になっていくだろうなんて、妙に明るいことも考えていましたが、そんなこと実現も何もしなかったわけですよね。そういう怒りのくすぶりみたいなものは今でもあります。

 

漫画家という立場で震災をどうとらえるか  

漫画家として、震災をどうとらえるかについても考えました。はっきりしていたのは、ふざけた漫画を描くことだけに人生を費やしてきた僕みたいな漫画家が、震災のことをストレートに描くことは難しいということ。そこで、岩手県から漫画のアンソロジーを出したいという話をもともといただいていたので、地震ではなく岩手の良さについて描くことにしました。WEBで掲載したものが、「コミックいわて」シリーズとして本にもなっています。そのほか、『まんが親』や『おかゆ猫』にも、岩手、宮城、福島の美味しい食べ物を描いたりしました。現地の人の話を聞いて漫画を描き、売上を全額寄付する『ストーリー311』というチャリティ企画に声をかけてもらったこともありましたが、僕は違う方向から地元を応援することしかできないと思ったんです。

 

岩手の実家には、今も定期的に帰っていますが、もっと他の場所もまわりたいですね。東北とひとくくりに言っても、宮城も福島も行ってないところはいっぱいありますし、青森も秋田も一部しか知らないですから。

今思うのは、かさ上げして再開発されている海辺の土地に、災害で地元を離れた人たちが戻ってこれるような、安心して落ち着いて暮らせる新しい町が一刻も早くできたらいいなということ。僕たちも被災地の人たちも、みんなが心安らかに生きていける世の中であることを願うばかりです。

吉田戦車

漫画家。1963年生まれ。岩手県出身。1985年、雑誌のイラスト等でデビュー。1991年、『伝染るんです。』で第37回文藝春秋漫画賞を受賞。代表作に『ぷりぷり県』『火星田マチ子』『まんが親』『おかゆネコ』、エッセイ集『吉田自転車』『逃避めし』などがある。2015年、一連の作品で第19回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。

※プロフィールは記事掲載時点の情報です。

編集/山上景子 文/樺山美夏

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