「大丈夫?」の声に辟易。あまり気にしていなかった幼少期
類が赤ちゃんだった20年以上前の日本では、まだ「発達障害」なんて言葉を聞いたことがありませんでした。
赤ちゃん時代の類の様子について、私自身は正直、あまり気にしていませんでした。
本の中で類が少し書いていますが、保育園の頃、合唱のがなり声が嫌で座り込んだり、工作やお絵描きに興味を示さなかったり、思い返せば、発達障害と結びつくエピソードはいくつかあるのですが、「嫌いだから、やらないだけでしょう」くらいに思っていました。
実際、保育園の先生や、子育ての先輩ママたちから、
「類くんだけ、○○ができません」とか、「ふつう●歳になったら、これができるはずなのに、まだできません」と、プレッシャーをかけられることは多々ありました。
人と同じことができなかったり、人と違ったりすると、すぐに「大丈夫?」と言われる風潮には、正直、辟易としていました。
私は「人より早くできる」ことには、何の価値もないと思っていたので、どうして、「まだできない」ことで、そんなに心配されるのだろう?と思っていました。
私自身、子どもの頃は何でも早くできるタイプでしたが、大人になったら、そんなことは何も関係ないことがわかっていたからです。
家庭でのしつけや育て方を問題視する風潮に抱いた疑問
今は保育園や幼稚園でも「気になる」お子さんについて、どのように発達や育ちを支えればよいのか、保護者と保育者とか一緒に考えていけるようになってきているようですが、当時は、子どもに問題があると「お母さん、どうにかしてください」と、家庭のしつけや育て方を問題視される風潮があり、それには参りました。
たとえば「図工をやらない子は、情緒が育たない」と言われたり、歌声が嫌で教室を逃げ出したことを「みんなと一緒のことができません」と言われたりしました。それを聞いても、「親に文句を言って、どう解決する気だろう?」「興味を持たないから、どうしていきたいという話なら聞くけど、興味を持てないことが悪いように言われるのはおかしい」と、思っていました。
本当に子どものことを心配しているのなら、「だから、こうしましょう」と解決策を一緒に考えればいいはず。親と子どもは別人格で、親がかわりに頑張れるわけでもないしと。
そんな状態だったので、当時は周囲の理解を得るどころか、文句を言われるいっぽうでした。
「我が子を守る」ことに専念するために。私が強くいられた理由
そこで、私が自分の意見を貫くことができたのは、自分は正しい知識を持っているという自負があったからです。
妊娠中、私は日本だけでなく世界各国の育児書を読みました。すると、国によって書いていることが違うことが多々ありました。冷えはよくないというのは日本だけとか。母乳に対する考え方も国によって様々でした。その時にまず、子育てには「こうでなければいけない」という決まりはあまりないんだなと理解しました。
そのうえで、子どもの発達の原理や基本的理論、病気や健康のこと、治療法なども、知識として頭に入れました。もちろん、自分では判断できない心配なことがある時は、医師の診断を仰ぎました。
理論武装はひとつの手段です。正しい知識を得ることで安心もできたし、不安も減りました。そうやって自分なりの視野をもっていると、周囲の雑音に惑わされず、ただ「我が子を守る」ことに専念できました。
周囲になんと言われようと、類のことを一番わかっているのは自分だと自信がありました。それは今も変わりません。
だから、「あなたは若いから何もわかってないのよ」と先輩面して、たった1人か2人の子育て経験を自慢されたり、保育者から説教されてもものともせず、言い返していました。
ただ、私はかなり弁が立つほうで、人から意見されたら3倍にして言い返すタイプ。黙って「はいはい」と、返事をするよりは、言い返した方が私はストレスになりませんが、波風をたてるのが嫌な人にとっては、言い返す方がストレスになるでしょうし、それはご自分のタイプによって、周囲とどう付き合っていくかを決めるといいでしょうね。
<<後編へ続く>>
ゼクシィBaby WEB MAGAZINEの記事
『発達障害の僕が 輝ける場所を みつけられた理由』(KADOKAWA)/栗原 類(著)
8歳で発達障害と診断された僕が、なぜ自分の才能を生かす場所をみつけて輝けるようになったのか。同じ障害がありながら、いつも僕を信じて導いてくれた母。そしてアメリカの「発達障害」に対するおおらかな環境と、学んだ英語が自信を持たせてくれたこと。されて嫌なことを人にはしないと決めた、人として愛される生き方など。ADDの特徴である衝動性を抑え、苦手なコミュ力を克服し、モデル・タレント・役者として歩んできたこれまでの道のりを語る。母、主治医、友人・又吉直樹氏のインタビューも収録。誰もが輝けるヒントがみつかる!